工房閑話の閑話(寄稿)

 

 

アメリカの旅行企画はむつかしい


 日本人が自由に海外へ出かけることができるようになったのは1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された年、そして東海道新幹線が開通した年でした。その年の海外渡航者数は12万7千人。数としては多いような気がしますが、でもごくごく一部の限られたひとにのみができた特別なことでした。
 海外渡航自由化が始まって10年が経った1970年代でも海外旅行は庶民にはまだまだ夢物語、少数のひとのものでした。それが1980年代にはいると爆発的に大衆化してきて、海外旅行も珍しいものではなくなりました。”海外渡航者数”という言い方も”出国者数”という表現に変わりました。1980年の出国者数は400万人。それが1990年には一気に1000万人にまで達しました。海外旅行に行けるだけの余裕がでてきた時代です。
 自由化がされてから50年近くが経った2013年は1747万人となりました。この数年、数値は伸び悩んでいます。海外渡航と言う言葉さえ陳腐なものになってきた昨今では、海外にでかけるということに魅力を感じない世代も増えています。格差社会が旅行を妨げているということもあるのでしょう。

 

 筆者は1980年代、まさに高度成長期の頃、海外旅行パッケージツアーの企画担当をしていました。ある意味旅行業界では花形の仕事であったのかもしれません。現在の旅行企画と違って1980年代はまだまだどのようなことをやっても目新しさがあり、旅行企画マンの腕の見せどころがいたるところにあった時代です。円高傾向はずっと続き、旅行代金は下がる一方。外国からの航空会社もどんどん参入し、日本航空に独占されていた国際線に全日空が参入してきました。まさに熱気に満ちた時代です。どんなツアーを作っても売れるというのがこの頃でした。新しければそれでよい。新しい観光地、観光素材を見つけてくるという仕事は企画マンの一番の遣り甲斐、喜びでした。

 ですが、アメリカ(USA)の旅行企画はちょっと違っていました。なぜかロサンゼルスとサンフランシスコ以外、広いアメリカのどこも売れません。ひとひねりしたツアーを作っても誰も行こうとしません。

 その頃ニューヨークはすでに十分知名度があり、あこがれ度もかなり高かったはずですが売れません。なにしろ旅行費用が高かったのがその原因。当時の航空運賃の制度のためですが西海岸より15万円から20万円ほど高くなります。運賃の基準が西海岸をもとに作られていて、それに東海岸追加運賃を加算してゆくという国際航空運賃制度でした。東海岸に行く人は95%がビジネスマン。企業や国が金をだすのだから少々高くてもよかったという考えの時代です。これでは一般的な観光客は誰も行けません。今では人気都市となったラスベガスはまだまだギャンブルの街としてか名前は広がっておらず、あくまでもグランドキャニオンを目的としているわずかのひと向けの中継地でしかありません。ニューオリンズ、アトランタ、オーランド、メンフィスどこもかしこも知名度はあるのに、誰もわざわざ行くところではありませんでした。

 

 1980年代、アメリカへの旅行客はどんどん膨れ上がって行ったのですが、それらはロサンゼルスとサンフランシスコ、それとホノルルをセットにした8日間のコースが一番の売れ筋で、逆にそれ以外は全く売れません。困ったことには、大勢が行っていたロサンゼルスもサンフランシスコも実は観光地としては見るべきものは何もなかったと言って過言ではありません。旅行者は何を見に行っていたのでしょうか? 
 サンフランシスコはゴールデンゲートブリッジとフィッシャーマンズワーフ、それにケーブルカー。何ともさびしい観光素材。
 ロサンゼルスはもっとひどい。サンタモニカと言えば大勢の人が知っている有名地ではあるが、行ってみればただの海岸線があるだけ。ビーチがことさら美しいわけではない。海に囲まれた日本人があこがれる必要はない。あとはメキシコ人街。他には何もない。かろうじてみんなが喜んだのはまだ日本にできあがってなかったディズニーランドだけ。それさえもディズニーランドがあるアナハイムに泊るのでなく、ロスからの日帰り観光でみんなはそれなりに満足をしていました。
 ただカリフォルニアという空気を吸い、USAという気分に浸っていただけで満足できていた時代なのでしょう。

 

 筆者はアメリカ担当の旅行企画マンとなり、観光地の魅力が全くないアメリカであっても、もっと幅広く旅行客を増やしてゆきたいと日々悩んでいました。会社からはもっと売れるものを作れ、人気コースを増やせと大きな期待を背負わされていました。悩みに悩んだ末、行きついた先は東海岸のボストン、ワシントン。そして広大な中西部。
 アメリカの中西部を売りたいと無謀な夢を抱いてしまったのです。あるとき下見と称してデトロイト、シカゴへと飛びました。中西部から東海岸まで、なんとしてもアメリカの魅力的な観光素材を見つけなくてはならない。はたしてあるのだろうか?事前に現地の資料をいくら読んでも、研究をしてみても日本人にとって面白そうなところはでてきません。なにしろ観光地としての最大の強敵はヨーロッパとアジア。ハワイは別格。横綱です。ハワイはアメリカには含めません。日本人が金を払って、日本にない魅力を味わいに行けるようなところがアメリカのどこにあるのか?

 

 あれやこれやの末、やっとのことで見つけたのが日本にはない”野外音楽祭”の魅力。これならばヨーロッパにもアジアにも負けないはず。
ボストンの”タングルウッド音楽祭”。そしてシカゴの”ラビニア音楽祭”。これは日本人の誰もが経験していない魅力的な観光素材のはず。確かに音楽に興味がないひとには魅力はないだろうが、日本人の洋楽への熱、特にアメリカの文化浸透はまず音楽から始まったと言えるほど、日本人はアメリカの音楽を世界中のだれよりもよく聴いていた。音楽祭という催しは楽しめる季節が限定されるという制約があるが、制約があるからこそそれを企画するのが腕のみせどころ。何よりも日本では体験できないことを経験して欲しい、というのは企画マンの一番の喜び。

  
 ボストンは立派な観光地。ここは特別のキャンペーンをやることとして、まずはシカゴから。郊外にあるラビニア公園で行われる野外コンサートはなによりも気軽に音楽を楽しめるのがよい。さらに音楽はシカゴ交響楽団である。申し分はない。これをメインにして他の味付けをしたい。何が必要か?何よりも名産品とか名物が欲しい。特に食べ物が欲しい。その地区でなければ食べられない珍しいもの、おいしいもの。地元のひとが愛している食事。何かないだろうかと悩んだ。


 旅行の三要素は自然、歴史建造物、美術工芸の芸術作品ですが、日本人にはさらに”よい土産”と”おいしい名物料理”がなければ売れないといわれています。人気を出すためにはなによりも珍しい土産物とおいしい(と言われている)料理が必要。土産物はなんと言ってもアメリカです。ここにはめぼしいものはありません。あきらめるしかありません。Tシャツと野球帽以外にはヨーロッパ発生のブランドものしかありません。当時はTシャツもありがたい土産でした。ロゴ入りのTシャツがあれば、かなりのひとは満足してくれます。

 

 “名物料理”の方は悩みに悩んだ末、やっとのことでたどり着いたのが”ビッグピザ”。正直なところただの“やたらとでかいピザ”。今の時代であれば”えーそんなもの!”と言われてしまうのだが、ピザは徐々に日本人の食生活に浸透し始めていたもの、慣れ親しみ始めたものであった。高級感はないが違和感も少ない。しかし平凡なもの月並みなもののであればだれも驚きません。あっと言わせることができるものがどうしても必要です。

 

 それが”シカゴ名物ビッグピザ”となりました。
 厚さ5センチほどはあっただろうか。大きさは30センチほどの円形。巨大なフライパンからぶあついびっくりサイズピザがでてきて、観光客を驚かせること間違いなし。よし、これでシカゴの名物誕生だ!だがこの名物は誰からの推挙はない。地元でも“名物”として知れ渡っているものでもない。地元っ子も名物だなんて誰も言っていない。自分で勝手に決めただけのものである。新しい旅行パンフレットに新コースとして発表して、堂々と”シカゴ名物ビッグピザの昼食”と書いた。このようにしてシカゴの名物料理はでっちあげられたのである。

 今思えば実にいいかげんなものである。

 

 さてさて、この新コース”ミュージックインアメリカ シカゴ・ラビニア音楽祭とニューヨーク8”は思い入れ激しく、全身全霊を注いで売り出すことになった。全国各地での商品発表会では必ず“ビッグピザ”を強調した。販売マニュアルにも詳細に説明を書いた。あらゆる手を尽くしたお陰で当時の旅行会社の社員はみんな脳裏に“シカゴ=ビッグピザ”と刻んだはずだ。ヒット間違いなし!!

 

ラビニア音楽祭

 

 しこうしてその結果は?

 

 惨敗であった。みごとに全く売れなかった。
 予想してなかったわけではない。でも、何としても新しい商品を、アメリカ中西部を売り出したかった意欲だけがつんのめっていた。いくら力を入れてみたところで、消費者にはその魅力は届かなかった。(はたして魅力と呼べるものがあったのだろうか?)全く売れなかった。だれもそんなところに行きたいと思うひとはいなかった。誰も食べてみたいとは思わなかった。それは現代でも同じである。ビジネス以外のひとが、観光客が、行きたいなどと思うものではない。結局のところ、なーんにも見るもの、感動できるものなどないのだから。このように言いきってしまうときっとお叱りを受けるはずである。シカゴは立派な観光地だと。観光客であふれていると。でも、日本人ツーリストは今も昔も行こうとは思わない。いかにしかけられても。

 

 新しいことにチャレンジするのは楽しい。でも、全く反応のないツアーを作ってしまった責任は?
 責任はまあ誰も問うひとはいませんでした。騙されたと思ったひとはいたでしょうが。他に売れるものを用意しておけば、売れないものがあってもいいという時代でした。企画マンとして新しいことをつくるひそかな楽しみを放棄することはできない。仕事の中に遊びは必要だ。売れないツアーを作るのも腕の見せ所、と勝手に考えていました。

 

 そんなことが自由にできたいい時代であった。それが1980年代であった。
 21世に入り2010年代。世の中はそのような悠長なことはもう許されない時代になっている。仕事に遊び心を持ち込むことは今の時代ではできそうにないようだ。貢献度、生産性、コンプライアンス・・・どんな仕事でも同じだが難しい時代である。

 

                            木曽士門

 

 

 

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