工房閑話
やる気スイッチ ON!
散歩中、学習塾と思しきオフィスのサインに目が留まった。曰く「やる気スイッチ ON!」。先生の両脇に一人ずつ生徒が座っている後ろ姿がガラス越しに見えるに至って、学生時代の家庭教師アルバイトを思い出した。
頭に闇がつくアルバイトが幅を利かせるような、ややこしい時代と違って、筆者が大学に籍を置いていた頃は、諸事おおらかであった。そもそも「毎月の授業料、下宿代、交通費の合計が6千円」と教育費自体が家計には優しかった。大学の伝統に馴染み、貧弱ながら愛すべきキャンパスに溶け込んでいたせいかも知れないが、貧乏生活は当たり前で、苦になった記憶がない。後年、家庭を持った時は事情が一変してしまい、かえすがえすも往時が惜しまれる。
実家の仕送りで日常生活に支障はなかったものの、家庭教師の報酬が清貧生活に与えてくれた、ささやかな潤いは誠に有難かった。自身で稼ぐ喜びもあったかな・・・。さらには、教える楽しさもあった。仕事開始前に、塾を運営していたクラブの仲間に、教え方について尋ねたところ、「出来の悪い生徒には、いけずして辞めさせるんや」と返ってきた。高い進学率を誇る塾だそうで、相談する相手を間違えてしまった。
私の教え子達は、(当然ながら)家庭にも恵まれたいい子だったが、おっとりしている分、向学心に欠けるきらいがあった。分からない事を質問してくれれば、左団扇でこなせる仕事だったのだが、そうは甘くはなかった。成果を出すためには、まず「ここが分からないから教えて欲しい」という所に導かなければならないが、この入り口で攻めあぐね、大手門はおろか、本丸は果てしなく遠かった。
「やる気スイッチ ON!」が「売り」になるということは、未だにこのニーズが健在あることを物語っているようだ。グローバル経済の奔流に飲み込まれ、世の中が目まぐるしく動き続ける現代は、悟りを開いた高僧や、脇見防止装置を付けた馬車馬にとっても苦難の時代だろう。ましてや、家庭教師や塾の講師の格段に発達したであろう技術をもってしても、普通の子供達に向学心を目覚めさせるのは、至難の技であるに違いない。人気絶頂の人工知能なら、気の遠くなるような大量のデジタル情報を吸収・分析し、この難題に対して限りなく解らしきものをはじき出すのだろうか。いずれにしても、もはや貧乏学生のアルバイトに出番は無さそうだ。
2023年8月29日