工房閑話
「汚い爆弾」
最近この耳障りな言葉がメディアを賑わしている。明治維新以来カタカナで借用してきた英語は、社会にしっかり根をおろしている。このハイカラな言葉はステイタスや権力の象徴として、政治家や経営者に好んで使われてきた側面がある。例えば、プライマリーバランスには基礎的財政収支という立派な日本語があるが、カタカナ英語の方がなんとなく、お洒落で、有難みがあり、非日常的で、深刻な財政実態を巧妙に覆い隠す効能まであり、これらがカタカナ導入を促進する力になっているのだろう。
そんな中で、敢えて不快指数の高い日本語を導入する必要はあるのか?プーチン氏の発言がきっかけとなり、一躍「時の言葉」に踊り出てきた「汚い爆弾」は Dirty Bombとして知られており、Radiological Dispersion Device(放射線散布装置)と説明されている。「汚い爆弾」と訳したところで、意味不明。さらなる説明が必要で、無理に日本語に訳す意義は大きくはない。また、英語から訳した言葉には、ぬぐい難い違和感があるのは珍しくないが、「汚い爆弾」は突出している。ここは素直にダーティーボムとすべきだろう。
「汚い爆弾」に或る記憶を呼び覚まされた。息子の幼稚園の参観日に園児の
歌が披露されたが、先生が伴奏するピアノの或る音が大きく外れていた。低い「ソ」の音のようだったが、晴れの舞台にふさわしく、実に元気の良い音を発していた。私はと言えば、ソの音が響く度に落ち着かない思いをし、「自分ならソの音は目立たないように小さく弾くのだが、子供達の情操教育は大丈夫だろうか・・・」などと思いを巡らしていた。そのせいもあってか、我が家の子供達の音楽性が開花することはなかった。
英語を学ぶ環境が充実しているのに比べ、日本語を取り巻く環境はなかなかに厳しい。それに応えるかのように、近年の日本語の乱れは悪化の一途を辿っている。「汚い爆弾」の連呼は、その象徴と言えよう。有史いらい大切にしてきた日本人の感性が劣化しているのかも知れない。言わずもがなだが、「汚い爆弾」が使用されないことを切に願っている。
2022年10月28日