工房閑話
空母「信濃」
毎年この時期になると、一連の行事とともに先の戦争に関する報道で賑わう。今年は、戦後初代宮内庁長官を務めた田島道治氏の「拝謁記」が公開され、注目を集めているが、私は同様にNHKが取り上げた空母「信濃」のエピソードに興味を惹かれた。「信濃」は、敗戦の色濃い昭和19年11月に、戦局を好転させる切り札として、横須賀の海軍工廠で誕生した世界最大規模の空母である。
もともと「信濃」は大和型戦艦の3番艦として設計されたが、戦局の変化に伴い空母に造り替えられた。熟練工及び資材の不足等に加え、工期の大幅短縮という過酷な条件のもと、未完成のまま就航した。処女航海は、仕上げの艤装工事のための呉の海軍工廠への回航であった。11月28日13時横須賀を出港したが、翌29日3時、浜松沖で米国潜水艦の放った魚雷を被弾する。艦内では工事が続行しており、思うように防水ハッチを操作できず、かろうじて閉じられたハッチも気密性に問題があり機能しなかったと伝えられている。バランスを取るための注水も想定どおりに進まず、同日11時に潮岬南東50kmで艦尾から沈没した。
時局を考慮しても、練度の貧しい兵で完成度の低い巨大空母を操るのは、如何にも無謀に映る。信じられないことに泳げない者もいて(即製とはいえ海軍の兵である)、大勢の溺死者を出している。戦局を打開するはずの虎の子の喪失は厳しく秘匿され、「信濃」の生存者は呉の近くにある島に隔離されたそうだ。
2019年8月21日